食と記憶のトランジション:展示「100才ごはん、3才ごはん――記憶の中の食景」について(地球研客員准教授 寺田匡宏)

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食はどのように語られ記憶されるのだろうか?生活世界の食についてみたとき、記憶と食の主体性の問題があらわれる。彼女/彼の中に、どのように過去の食の記憶が残るかは、今、現在の食の彼女/彼の食のあり方に結びつく。100年後においてすら、100歳の翁は、子どもの頃に食べたものを生き生きと、ありありと思いだす。

FEASTプロジェクトの一員として、『百年の食語り』という映像制作をプロジェクトの開始以来、行ってきた。2018年5月11日から18日にかけては、その研究成果の一端を総合地球環境学研究所のエキシビション・ホールで映像インスタレーションとして展示する機会を得た。その展示で得られたこと、とりわけ、食と語りと持続可能な未来に向けたトランジションの関係について述べてみたい。(展示の詳細はこちらから)

この展示のタイトル「100才ごはん、3才ごはん-記憶の中の食景」が示すように、この展示は、100才の翁と3才の女の子供の食についての語りを取り上げたものである。その焦点の一つは、100才の翁が、どれほど生き生きと食の経験を語るのかという点にあった。沖縄のやんばる地域に位置する大宜味村にすむ深福さんは、2016年の秋に100才を祝った。沖縄は長寿で著名な地域の一つである。深福さんは、家族とともに同村の自宅に住み、100才になっても、毎朝、自らのシークワーサー農園に出て農作業を行っている。

記憶の中の食について問われて、深福さんは、子供のころに食べたサツマイモの味が忘れられないと語る。

「やっぱり、若いころのイモ・・・。イモ、あの、物置き場に保存しておって、その、芽が出たころのイモのおいしかったことは、今でも忘れないね。芽の出るころが(水分が抜けて甘みが凝縮されるので)、おいしかった。(当時は、)田んぼの半分は、イモ作って、半分は(米の)二期作をして、そんで、イモを蓄えとったんです。今、あの、焼き芋屋が売ってるイモ、あの味がやっぱり、同じような味がしよったよ。」

100才の翁は、そう言って、子供のころのサツマイモの味を語り、その傍らで娘さんが「だから、よく焼き芋、買うよね」と言って笑う。これは、食の記憶が長く残ること、そして、味の記憶とは、その人の中に百年近くも保存されるものであることを示している。

もし、食の記憶が彼女/彼の中に1世紀近くも残り続けるのだとしたら、彼女/彼の幼少期の食の体験が彼女/彼のアイデンティティに決定的な意味を持つことになろう。百才翁の語りとの比較のために、この展示ではもっと若い世代の語りも取り上げた。カメラは、3才の少女たまちゃんのお昼ご飯のテーブルにお邪魔した。たまちゃんは、京都市の中心部に両親と住んでいる。お母さんのおなかの中には、たまちゃんの妹が入っている。映像は、この3才の少女がどれだけ集中してご飯を食べるかを捉える。「いただきます」から「ごちそうさま」の間の約20分間の食事の間、たまちゃんは、トマトやキュウリや、お母さんの手作りのカレー味のお肉入り野菜ご飯を、気を散らすことなく、おいしそうに食べる。

このたまちゃんの集中した食への姿勢は、お母さんとおばあちゃんのトレーニングのたまものである。お母さんとおばあちゃんへのインタビューの映像は、お母さんとおばあちゃんがたまちゃんをどのようにトレーニングしたのかを教えてくれる。「最初はね、やっぱり、ちょっとね、遊んだり・・・」とお母さんは言う。けれど、トレーニングの後は、たまちゃんは、どうするべきなのかを学び、それからは、きちんと集中して食べることができるようになった。このトレーニングは、彼らの家族の伝統から来ている。たまちゃんのお母さんは、その母、つまり、たまちゃんのおばあちゃんから同じトレーニングを受けたという。たまちゃんのお母さんは、たまちゃんの食事を手作りしていて、レトルト食品などはあまりあげたくないと言う。なぜなら、彼女が子供だった頃、彼女の母-つまりたまちゃんのおばあちゃん-は、看護婦として忙しかったのに、彼女に食事を手作りしてくれていたのだから。彼女は、彼女の母が彼女にそうしてくれたから、彼女も、彼女の娘にそうしなければならないと思っている。ハビトゥスとしての食の移行は家族の絆の中で行われ、それを通じて、家族の伝統となってゆく。

だが、同時に、食に関してみるならば、家族の中において、あるいは、親密な母娘関係の間においてすら伝えられることができないものがあることも確かである。「お母様の味で何が好きですか」と問われ、たまちゃんのお母さんは、「彼女の母の筑前煮が好き。海外旅行から帰ってきた時は、いつも作ってほしいと頼んでいる」と言う。彼女は、その味が好きで同じ味を作りたいと思ったほどだったので、ある時、彼女の母に、正確な分量を尋ねたたそうだ。だが、その企ては成功しなかった。なぜなら、母の答えは、「目分量」ということだったが、母の「目」と彼女の「目」は違うのだから。たまちゃんの母は、その母-つまり、たまちゃんのおばあちゃん-と同じ味を、自分が再現することはできない、と語る。興味深いことに、たまちゃんのおばあちゃんも、その娘と同じことを証言していた。彼女は、その母-つまり、たまちゃんのひいおばあちゃん-の炊いた海老芋が好きだったという。けれども、彼女は、その味を同じようにはどうやっても再現できないことも述べる。

味とは、個人的なものである。しかし、同時に、それは人々の関係性の中で生じるものでもある。これは、食の二重性を示しているであろう。一方では、味とは個人的なものであり、それは工業化された製品のように繰り返すことはできない。母娘関係ですら、同じ味を再現することは不可能なのである。だが、他方、味や食のハビトゥスは日常の調理、提供、共食の過程で伝達される。フランスの社会学者ピエール・ブルデューによれば、ハビトゥスとは社会関係に影響を受けた身体化されたふるまいである。味についていうならば、家族の伝統として伝えられるものがある傍ら、世代を超えて伝えることのできないものがある。この二重性は、味というものが、ハビトゥスとしての食から生み出されたものであることを示しているといえる。

この食における二重性は、人間が、この世界の中で、どのように生き、存在し、生存しているかという存在論的条件から来ている。通常、人間とは、自立した行為主体としての個別的存在ととらえられる。その著『存在と時間』の中で、哲学者のマルティン・ハイデガーは、人間は、存在し始めた時から存在し、存在をやめた時に存在をやめる存在であると定義した(1)(図a)。 その見方によるならば、人間の存在とは二つの端-誕生と死-によって限定されていることになる。ハイデガーは、人間存在は、非存在の世界から独立し、孤立し、分離された存在としてこの世界に投げ出されていると考える。しかし、別の見方、とりわけ、フェミニズムにおけるリプロダクションとケアという視点に立った時、フェミニズム哲学のクリスティーヌ・バタースビーが言うように、人間存在とは、共依存的であると定義しうるものである(2)。人間は彼女/彼の初期と後期の人生の段階において集中的なケアを必要とするのであるし、胎児として人がいつ存在し始めたかは、その胎児を身ごもる母の存在と切り離すことはできない。これらの依存関係を通じて、限定された個別の存在は、生の二つの端を超えてあいまいになり、二つの端は、もはや端とは言えなくなるともいえる(図 b)。 人間がケアし、ケアされる必要があるということは、共依存が人間存在の存在論的条件にすでに組み込まれていることを意味する。政治哲学のハンナ・アーレントは、人間の条件とは、人間が、この世界の中でどのように行動するかによって決定されていると考える。彼女の書『人間の条件』のドイツ語版は『ヴィタ・アクティヴァ、あるいは活動的生』と題されている(3)。人間とはその生命活動の在り方によって定義されるものであり、わたしたちヒトという種の日々の生を観察した時、わたしたちは人間存在の二つの側面-一方に世界から個として切り離された存在であり、他方に世界の他の存在と共依存する存在であるという-に直面するのである。味が個人的なものであり、伝達不可能なものである一方、食習慣は伝達可能であるという食のハビトゥスの二重性とは、人間が人間存在としてどのように存在するかという問題の基本的なこの特質と関係している。

この共依存関が持続可能な食への移行の一つの鍵だとしても、それはどちらかというと不可視なものである。なぜなら、それは家族の中、つまり、親密圏の中に織り込まれたものであるから。そのささやかな声をどのように掬い取り、どのように公共圏につなげてゆくかは、食を巡る問いのひとつでもあろう。この展示は、それへの回答の試みであった。

<引用文献>

(1) Martin Heidegger, Sein und Zeit (Being and Time), Tübingen: Max Niemeyer Verlag,1972, S.374.
(2) Christine Battersby, The Phenomenal Woman: Feminist Metaphysics and the Patterns of Identity, Cambridge: Polity Press; Christine Battersby, Singularity and the Female Self: Encountering the Other, Women: a cultural review, 22-2/3, 2011.
(3) Hanna Arendt, The Human Condition, 2nd edition, Chicago: The University of Chicago Press, 1998; Hanna Arendt, Vita activa oder Vom tätigen Leben, München: Piper Taschenbuch, 2007.

展示では6つのスクリーンが設置されました(撮影:寺田匡宏)

たまちゃんのお母さんとおばあちゃんによる語り(撮影:寺田匡宏)

 

図a 二つの端によって限定された独立した人間存在:ハイデガー的な見方
図b 二つの端を超える人間存在:ケアと共依存にもとづくフェミニズム的見方