地球研オープンハウス:ナラティブ、味覚、アイデンティティ―「あなたの未来の100才ごはん」について(地球研客員准教授 寺田匡宏)

FEAST HQ イベント, レポート

毎年、夏の一日、地球研はオープンハウスとして、その扉を一般の人々に開く。今年(2018年)のオープンハウスは、7月27日に開催され、900人以上の来場者があった。このオープンハウスでは、ほかのFEASTの企画と並んで――FEASTは今年、「ブータンの食テント」(映像インスタレーション)、「自転車で出かけよう! 京都の畑と田んぼ探し」(装着式カメラの体験)、「スーパーでは買えない食べもの」(ワードクラウド)、ゲームカフェRIHNでのフードポリシー・カウンシルゲーム(シミュレーション式ボードゲーム)、そして標記企画の合計5つの企画を出展したが――、5月の映像インスタレーションに続いて、インタラクティブ型のインスタレーションを設置する機会を得た(1)。

インスタレーションの目的は、来場者に、現在の食ハビトゥスと未来のありうるべき長寿との関係を考えてもらうスペースを提供することである。そのために、ブースでは、100才の長寿者のインタビュービデオを放映するともに、彼らの好きな食べ物について書いてもらう場所と画材を用意した。来場者の多くは、小学生(とその親)であるため、まず第一に、彼らに、長く生きることとはどういうことかを考えてもらい、そして、長寿と食とを関連付けてもらうことを目標とした。

このインタラクティブ・インスタレーションでは「100才ごはん」という用語を使用した。それは、100才の長寿者によって、好きなごはんとして回想された食のことである、とそこでは定義した。そのような用語が使われたとき、 通常ならば、長寿の原因となり、長寿を可能にする食というような含意が前提とされることが多いだろう。しかし、このインスタレーションでは、そのような意味を採用せず、長寿を原因と結果のある出来事として扱うことを避けようとした。むしろ、ここでは、長寿は単なる結果としてだけ扱われている。その理由の一つとしては、人間の生というものは、原因と結果のナラティブとして語るにはあまりに複雑なプロセスであるからである。もし、人間の生が、そのような語りのもとで語られたとしたならば、それは、その生をあまりに単純化しすぎることにもなりかねない。と同時に、それは、長寿者がその生を語った語りの中で容易に見いだせる長寿者の実感でもある。彼らにとっては、彼らの長寿は単なる結果であって、彼らは、その長寿をしばしば偶然のものとして語る。長寿を結果として見るとき、われわれは、未来の自己の位置にいる。そして、その未来の位置は、我々の生を後ろ向きの因果性のもとで語ることを可能にする。未来のポジションに立つことの重要性は、未来に関するサステイナビリティ研究において強調されている。未来の視点に立ち、現在の食ハビトゥスを未来から後ろ向きに振り返ることは、サステイナブルな食の未来を考える上でカギとなる重要性を持つものであろう。

インスタレーション・ブースの大きなスクリーンには、沖縄の100才翁の深福さんのインタビュー映像が映し出された。彼は、その子ども時代の食の記憶をよく覚えている。彼は、子ども時代に食べたサツマイモの味が忘れられないという。このインスタレーションでは、このサツマイモを深福さんの「100才ごはん」と位置付ける。とはいうものの、上ですでに述べたように、深福さんは、サツマイモを長生きするために食べていたというわけではない。実際、彼が子どもの頃サツマイモを食べていた時には、その後100年間も生きることなど考えてもいなかっただろう。だが、現在の視点に立った時、歴史的帰結として、彼は、100年間生きることができたのだった。いま、この瞬間、彼女あるいは彼が、その後、100年間生きるかどうか知っている人は誰もいない。だが、彼女あるいは彼が100年以上生きることができて、彼女あるいは彼がその時点からその子どものころの日々を振り返った時、彼女あるいは彼が、今好きな食べ物は、子どものころに好きだった食べ物として回想されることになり、彼女あるいは彼の「100才ごはん」と言いうることになる。このインスタレーションでは、来場者に彼女あるいは彼の今好きな食べ物を書いてもらうことをお願いした。それは、彼女あるいは彼が100年生きたのち、彼女らあるいは彼らが100才となった時点で過去を振り返った時、彼女あるいは彼の「100才ごはん」になっているのである。

絵を描くことは楽しいことであり、食べ物の絵を描くことは、その魅力を加算させるだろう。このブースには、100人近くの人が来たが、彼らは、自分たちの「100才ごはん」を楽しんで描いていた。メニューのバリエーションでいうと、それらは、たいへんバラエティに富んだものであった。地球研は京都にあり、大半の来場者は京都在住の人々であったから、日本の伝統的食が好まれるであろうことはたやすく予想されたし、実際、多くのそのような料理の絵が描かれた。たとえば、すし、卵焼き、漬物、みそ汁と白ご飯、おにぎり、肉じゃが、お好み焼きなどなどである。だが、同時に、日本の伝統的な食以外の料理の絵も多くの人によって描かれた。たとえば、ハンバーガー、エビフライ、ステーキ、タイ料理のトムヤムクンなどなどである。これらのメインディッシュのほかに、ストロベリーショートケーキやスイカやブドウやモモなど、たくさんのスウィーツや冷たいものが描かれた-今年のオープンハウスが開催されたのは、今年の最も暑い日のひとつであった。

興味深かったことは、ほとんどどの来場者もその料理に関する何らかのストーリーとともに、絵を描いていたことである。ある中学生の男の子は、「ばあば」の肉じゃがの絵を、その肉じゃがが、彼の母の肉じゃがとどう違っているか、そして、彼は、「ばあば」の肉じゃががどれほど好きかを話しながら描いていた。別の小学生の女の子は、さくらんぼジャムとパンケーキの絵を描き、はにかみながら、その母の手作りのジャムがどれだけおいしいかを語った。ある若い女性は、彼女の母が、彼女が高校生だった時に毎日お弁当箱に入れてくれた卵焼きの絵を描き、その味を細かく説明し、同時に、彼女のその味をまねたいという熱心な、そして、いまだ成就していない願いについて語った。ある二人の娘の母は、お餅の絵を描き、スーパーで買ったお餅より手作りのお餅の方がずっとおいしいので、彼女の家では毎年、年末に餅つきをすることを語った。ある小さな幼稚園児でさえ、イチゴとケーキをシンプルな線で描いた後、それが好きだと語った。いったい、これらのナラティブは何を語っているのだろうか。第一に、ナラティブ(物語)とドローイング(描画)は同じ性格を持っている。アリストテレスは『詩学』の中で、ナラティブをはじまりがあって、中間があって、終わりがあるものであると定義した。この性格は、絵を描くことという行為の中にもみられる(2)。つまり、それも、はじまりがあって、中間があって、終わりがあるのである。だから、絵を描くことと語ることの相似性が食の記憶をよりたやすく呼び起こしたともいえるかもしれない。そして、第二に、描くこととは、記憶を具体的なイメージとして紙の上に現実化させることである。それは、記憶の中のイメージ空間にあるよりももっと細かな色やマチエール(材料、素材)というような要素を必要とする。ブースではインタラクティブなコミュニケーションを重視したので、参加者は、絵を描きながら、多くを語った。ナラティブは絵を豊かにし、描かれた絵は、また、翻って、ナラティブを豊かにする。好きな食の絵を描くことにみられたよろこびと楽しさとは、おそらく、このダイナミックな相互的なプロセスから来ていたのであろう。

物語を語る能力はデザインの意思と能力からくる。何かをデザインするとは、手に取ることができるものであれ、手に取ることができないものであれ、なんらかの出来上がった状態を想像して、それに向かうプロセスを進んでゆく行為である。そのような意思は4才から6才くらいの頃にすでに獲得されていると言われている(3)。ブースでは、多くの子どもの参加者が絵を描くことを楽しんだだけでなく、彼女あるいは彼が書いている食べ物の絵について語ることを楽しんだ。主体性、あるいは、アイデンティティは行為によって形成されるので、彼らは、そうすることによって、彼らのアイデンティティを形作っていたともいえる。そのドローイングにおいて、彼女あるいは彼は、はじめ、何が描かれるべきであるかはわからない。しかし、いったん、何を描くかを決めると、彼女あるいは彼は、ゴールをある特定の絵の特定の具体的なイメージとして設定し、そのゴールに向かって集中する。ある料理の絵を描くことは、何がその料理の材料で、それはどう作られるのかという知識を――たとえ漠然としてであれ――必要とする。食べ物の絵を描きながら、子どもたちは、彼女あるいは彼の好きな食べ物を料理していたともいえる。

同時に、子どもたちの絵は味の好みというものが人生の早い段階で現れていることを示す。インスタレーション・ブースでは、4歳未満の幼稚園児でさえもが、彼女あるいは彼の好きな食べ物の絵を具体的に書いていた。味覚は、生き物の最古の生存機能の一つに関係する。独創的な解剖学・形態学者の三木成夫は、進化形態学を理論化し、消化器官は生物が進化の過程で発達させてきた最も基本的な器官の一つであり、その存在と機能は今日でも人間の体の構成を規定していることを明らかにした(4)。彼によると、動物の器官は「食―生殖」と「感覚―運動」という二つの軸に分けることができるという。前者の機能は、もっとも基礎的な生命の要素であり、栄養摂取はすでに原核生物段階から観察される。三木は動物の胎児の発生過程において、動物の体内の諸器官が、口から腸管に至る身体内のチューブに沿うかたちで発達することを明らかにした。それらの器官の配置が、体の上下左右を決定するのであり、身体内の消化器のチューブは水準器としての働きをすると言える。

味覚とアイデンティティは緊密に結びついている。人間の類型分類学はその人の味覚の好みによる場合も多い。そのような理論が精神医学の発展に寄与したこともよく知られている(5)。人間の性格分析は精神医学の初期段階において盛んにおこなわれていた。その有名な例の一つは、エルンスト・クレチュマーのそれで、そこでは、人間のフィジカルな側面と精神的な 側面が結び付けられていた。また、これは、近代科学以外の言説においても見られる。ヒンドゥーの伝統的医学である、アーユルヴェーダの基本であるドーシャという考え方は、消化器官を重視し、その人間類型の一つの名前「カパ」もそこから来ている。アーユルヴェーダは人間の体は、宇宙の構造と響きあっていると考え、消化器官はその要素の一つであると考えるのである。アーユルヴェーダにおいては、また、食材と味覚に基づいた手の込んだ治療の方法も確立されている(6)。似た考え方は気のエネルギーの考え方をベースにした針とマッサージのトリートメントである日本の整体にもみられる。日本の著名な整体に関する理論化の一人である野口晴哉の方法は、消化器官の重要性を強調している(7)。

記憶と味覚とアイデンティティは緊密に結び合っており、記憶と味覚は、われわれ人間、あるいは、動物、あるいは、生命体の進化のプロセスの深い歴史から来ている。味の記憶が想起されたとき、われわれの体の中に埋め込まれたそのような深い時間が想起されているともいえる。とはいえ、この深い時間とは何であろうか。そして、この深い時間はわれわれをどこに運ぶのであろうか。この深い時間の時間の方向性とは、後ろ向きのものだけであるだけではなく、前に向かうものでもあるに違いない。記憶と味覚とアイデンティティの間にある緊密な結び目をほどくことは、サステイナブルな食の未来を見つけるためのあるひとつの鍵となるものかもしれない。描かれた食の絵と語られた食の語りは、その過去と未来の深淵を照らす一つの灯でもあろう。

<注釈・引用文献>

(1)5月に実施された映像インスタレーションについては、6月19日にFEASTホームページのブログに投稿された寺田匡宏「食と記憶のトランジション:展示「100才ごはん、3才ごはん――記憶の中の食景」について」を参照。

(2)Aristotle, “Poetics, in Aristotle, Longinus, Demetrius. Poetics, Trans by Stephen Halliwell et al., Loeb Classical Library 199, Cambridge, MA: Harvard University Press, 1995.

(3)Gregory Currie, Narrative & Narrators: A Philosophical of Stories, Oxford: Oxford University Press, 2010, p.2.

(4)三木成夫『生命形態学序説――根源形象とメタモルフォーゼ』うぶすな書店、1992年。

(5)中井久夫『西欧精神医学背景史』みすず書房、2015年。

(6)Swami Sadashiva Tirtha, The Ayurveda Encyclopedia: Natural secrets to Healing, Prevention, & Longevity, Revised 2nd Edition, New York: AHC press, Chap.2, Chap.6.

(7)野口晴哉『整体入門』筑摩書房(ちくま文庫)、2002年。

ブースの様子(写真:FEAST)

エビフライの絵を描く小学生の女の子(写真:寺田匡宏)

描かれた絵。左から右、上から下へ。オムライス、現代的な日本の朝食(ごはん、わかめの味噌汁、ベーコンエッグ、漬物、たらこ)、スイカ、お母さんの作った卵焼、おいも、お母さんの作った卵焼き、ミカン、岡山の白桃。(写真:寺田匡宏)